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KANTA通信 | 発行月:2012年12月 編集・発行 /(特活)関西ナショナルトラスト協会(KANTA) 発行:中岡 健生 編集:KANTA広報室 |
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関西ナショナル・トラスト協会 | |||||||||||||||||||||||
No.66 | |||||||||||||||||||||||
〒550-0002 大阪市西区江戸堀1-2-14 肥後橋官報ビル5階((社))アジア協会アジア友の会内 06-6444-0587 Fax 06-6444-0581 Email: kanta@jafs.or.jp |
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関西の美しい水田風景や山林、歴史景観と生活環境を守る運動 | |||||||||||||||||||||||
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今、注目される江戸の思想家石門心学の開祖亀岡市出身の偉人 石 田 梅 岩 |
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![]() 先達に学ぶ! 今、環境問題への意識の高まりや企業の不祥事が続く中、CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)が問題になっています。現在、原発の可否が争点となっていますが百家争鳴の感があり何ら解決点が見いだせていません。閉塞感が蔓延する中、企業の果たすべき役割や社会人としての行動指針の根底となる思想を先達から学びたいと思います。 石田 梅岩(いしだ ばいがん) 貞亨2年9月15日(1685 年10月12日) - 延享元年9月24日没60才(1744年10月29日)は江戸時代の思想家、倫理学者。石門心学の開祖。名は興長。 通称、勘平。 ◇石田梅岩の生い立ち 丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に、百姓の次男として生まれる。10歳のころ、自家の山と他家の山との境で栗を拾い、分別なく拾ってきたと父に叱られ、すぐに栗を返しに行ったというエピソードが残っている。1695年、11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷へ帰る。1707年、23歳の時に再び奉公に出て働く。 ◇思想家の道へ 仕事前の早朝から窓辺に向かって書物を読み、仕事後の夜更けにも勉学に励んだと言われる。この修行期の梅岩にとって「人の人たる道」を追求することが大きなテーマであった。商人として体験をもとに、求道者としての梅岩の苦しみは続く。 その渦中で、1727年に出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、45歳の時に借家の自宅で無料講座を開き、後に『石門心学』と呼ばれる思想を説いた。 すなわち「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学としている。したがって梅岩自身は『性学』といっていたが手島堵庵のなどの門弟たちによって『心学』の語が普及した。 当初は男子のみを対象としていたが、聴講を望む婦女子が多く、障子越しの別室にて拝聴を許された。 ◇その思想 多くの人材を輩出 士農工商の身分制度の厳しい時代、商業は一番下とみられていた中で「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。最盛期には、門人400名にのぼり、京都呉服商人の手島堵庵(1718--89)、をはじめ「松翁道話」を著した布施松翁(1725--84)、心学道話の最高峰とされる「鳩翁道話」の柴田鳩翁(1783--1839)、このほかに・斎藤全門・大島有隣等優れた人材を輩出した。 ◇今、注目される思想 1970年代頃からの環境問題への意識の高まりや、企業の不祥事が続く中、CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)ということが欧米を中心に盛んに言われるようになったが、そのような背景の中で「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と、実にシンプルな言葉でCSRの本質的な精神を表現した石田梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として脚光を浴びている。その思想もやはり営利活動を否定せず、倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いており、寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRにはない特徴がある。 ☆主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。 |
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■□■□■□■□■□■□■□ 美 山 通 信 □■□■□■□■□■□■□■ |
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この町を、訪れる 人々の心の故郷に KANTA通信に美山の一ページ欄を設けて頂きありがとうございます。 美山からの便りが継続発信できるように頑張りたいと思っています。 我が家の愛しのツバメ ![]() ある日、内緒でそっと巣を覗き込んだら卵が並んでいました。夜は冷え込むので、毎朝家の戸を五時頃に開けるのが私の役目。家主と親鳥が頑張ったので六羽の子が五月三十一日(写真は外へ出た日の早朝、まだ寝ている子も)未知なる屋外へ羽ばたいたと思うや、屋根にとまって足を滑らし、雨樋の中にコソットはまったりしていました。 村おこしのために 故小馬さんは、村おこしを集落型戦略→地域型戦略→広域型戦略で展望されていたと思います。 その実践を全国で展開されているKANTAの皆さんに接し、それぞれが美山楽舎への熱い思いを抱かれ、活用に多くの期待が込められている古民家だと言う事を実感させて頂いております。 修復活動等にご尽力されてきて数年、交流のさらなる充実発展を願い、大内地区農村・都市交流&関連事業実行委員会を立ち上げることになりました。南丹市ご当局並びに集落支援員さんのご支援・お力添えも頂いております。今後、いろんな形で交流の輪が広がり、交流を通して人々の絆が今まで以上に深まることを願っている一人です。 美山の伝承(木梨軽皇子ゆかりの地) 美山楽舎は、保瀬頭一番地にあります。伝承「野々村誌」畠中徳三編著によれば、飛鳥から木梨軽皇子の供をした従者の事が書かれています。(大前、保瀬、前丁田、下伊都、朝田の五氏であったと思われる)内久保にカルノと地名に皇子の名を冠したようにこの五氏の功臣の名を地名に冠し、今の小字名として残されています。即ち保瀬、小字保瀬頭(以下省略)。 注:『古事記』によれば、木梨軽皇子は允恭23年立太子するも、同母妹である軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)と情を通じ(近親相姦)、それが原因となって允恭天皇の崩御後に失脚、伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われる。(日本書紀では説が異なる) ☆皇子は美山へ遁れてきたと伝えられ、墓所を建て地元の方々がお祭りし大事にお守りしている。 美山大内周辺地域の水利 ![]() 9月29日には、幹線水路の管理道路部分の沈下個所を修復すべくKANTA関係者の皆さんに手伝って頂きました。ありがとうございました。 これからも美山の身近に起きた事、地域の事、大きな出来事、小さな出来事など取り混ぜてお知らせします。 (実行委員 井上喜一) 美山町芦生の森 秋は色彩の渦! はじめまして!南丹市の集落支援員として、今回この場をお借りして美山の情報をみなさまに発信させていただきます。 ここでは美山町内の様々な取り組みなどを紹介していきます。その前にまずは『集落支援員って何?』というところから説明させてください。 集落支援員は、集落という小さなコミュニティを出発地点に地域の問題を発見し、解決しようとする活動をしています。そうして少しずつ地域に元気になってもらうためのサポートをしていくことを役割としています。 さて、秋は紅葉の季節。美山の野山がきれいに色づく季節です。今回は美山町芦生の森林環境と、それを守る取り組みを紹介します。芦生はブナ林などを含む原生林が約2000haも広がる場所で、秋の美山一番の観光スポットです。マイクロバスは一日4台までという入山制限があるにも関わらず、毎年2万人もの方々がいらして下さっています。 しかし現在、シカ、そしてワラビが芦生の豊かな植生を脅かそうとしています。シカは木の新芽なども食べるため、ブナやトチの若木など背の低い植物を食べてしまい、原生林としての植物が育ちにくい状況をつくっています。一方で、シカはイワヒメワラビなど毒性がある植物は食べません。イワヒメワラビはシカの脅威から逃れ、大人の腰の高さまで成長します。そうするとワラビの陰に隠れてしまって、ブナなどの種子は発芽しにくくなります。運よく芽が出てもシカに食べられるかも知れません。このサイクルが何年も続くと、芦生から秋の色彩が失われるのではないかと心配されているのです。 こうした状況に対し、平成23年度よりイワヒメワラビが芦生の植生に与える影響を調べる取り組みが、地域住民・猟師・京都府・南丹市の連携でスタートしました。もしかすると、イワヒメワラビが新芽をシカから隠してくれているかもしれない、という仮説もあるそうです。 今後、南丹市美山町は、地域をあげてどうやって自然と付き合っていくかを考え行動していく必要があります。是非みなさまのお知恵を拝借させて下さい。よろしくお願い申し上げます。 (集落支援員 大東 豊) |
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美 山 に 暮 ら す 人 美山を愛し、美山に暮らす人! 三船 國彦さん |
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![]() 永年住み慣れた都会を離れ、美山に住み着いた方は沢山おられますが、三船さんもその一人、長年警察官として働いておられましたが定年後、今は美山の自然の中に溶け込んで暮らしておられます。 三船さんは「魚釣り名人」で渓流釣りでは日本チャンピオンに何度も輝きました。 子どもさんが大好きで、修学旅行生に釣り教室を開いたり、美山の自然文化村と連携して芦生の森の森林ガイドもされています。 家では工房をもっておられ、木工や竹細工など玄人はだしの作品を数多く作られておられます。 昨年からは、南丹市と連携されて「日本えんぴつけずり大会」の審査委員長をされました。 11月23〜25日に開かれたアジア協会アジア友の会の自主グループのグリーンスカウトの美山キャンプでは、都会っ子ではなかなか出来ない薪割を指導して下さいました。 職業柄、ロープワークや危機管理にも造詣が深く私たちが学ばなければならないスキルを沢山持っておられます。これからは、若い人達に色々なことをご指導願いたいと思っています。 記:岩崎準一 |
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