KANTAのルーツを探すAよみがえれ森林の文化

〜 生命を生み出す水資源 〜
 

 
 私たちは一年ぶりに「よみがえれ森」を訪ねた。気のせいか昨年以上に私たちを、元気な姿で温かく迎えてくれました。今回の目的地・坂本さん宅も、温かく迎えてくれた。坂本さんはご紹介するまでもなく、現在アジア協会アジア友の会の理事で、KANTA副運営委員長であります。前回「よみがえれ森Jの紹介をするために訪れたが、今回は森つくりに情熱を傾けておられる心境をお聞きしながら、森づくりの必要性を拝聴することにしました。結論を先に申し上げると、「生命を生み出す水資源」の確保と、「心豊かな人間」の育成がキーワードでした。森の働き、恵みはいろいろありますが、今回は文化的な側面でアプローチし、拝聴してまいりました。以下ご報告させていただきます。

1.里山の自然
 私が子供時代に過した頃の村の森の殆どは、雑木林に覆われていました。春になると新緑が芽を吹き、夏近くなるとその緑も段々荒くなっていき、やがて、深緑の色に変化していくわけですが、緑の色が本当に数え切れないほど、多くの色があることを私達の目に鮮やかに写し出されておりました。秋の頃になると、木の実拾いや遊びなどで森は賑やかになり、正に、子供達にとっては遊びの場であり学びの場であったのです。
 秋も深まってくると、落葉する木々はその殆どの葉を地上に落として、木は丸はだかになるわけですが、落葉は農家の人々にとっては大切な肥料として、それらをかき集めては田畑に運び入れていたのです。
 冬の頃になると、村の人々は薪の採取に森に入りました。小さな木は切らずに残していく択伐の方法で、森全体を伐ることはありません。つまり、このことは飲料水や田の用水として、水がれのしないように保全してきた永年の知恵なのです。
 森のなかには、小鳥や小動物も沢山すんでいましたが、落葉した葉をほりおこすと、沢山の小さな生き物たちがみられた。これらの生き物たちは、土を肥沃な土壌にしてい
く働きもあるが、目には見られない小さな生き物たちは、雨水とともに、川を通って海に流され、魚を育てるプランクトンの餌こなるのです。つまり、海の魚にとっても里山は大切な森であったわけで、特に海岸近くの森は、魚付き林として大切に保全されておったようです。

2.里山の文化
 鎮守の森に代表されるように、森は村や里を守ってくれる大切な場所として保全してきましたが、水源のための「水持ち山」、土砂の流出を防ぐ「砂留め山」、順番に伐っていく「順伐り山」などのきまりは、何百年にもわたり継
承されてきた文化であったわけです。
 村や里では、夏祭や秋祭が盛んに行なわれていましたが、これらの祭りの殆どには、自然の恵みに対する感謝と畏敬の念が込められたものでした。例えば、農業の神様が森に居られるという素朴な感情も、人々の心のなかに生き続けてきたのです。
 歳事・年中行事、神話、民話、伝承、信仰、故事・ことわざなどの殆どは、森の文化が源泉をなしてきたといわれています。
 森林の文化の根底には、自然に対する感謝や畏敬の念だけでなく、村や里や人々を大切にしていくという、人間として基本的な道義心や倫理観が重要視きれてきたのです。
 自分さえよければというような考えは通用しない、本当の共同社会を形成してきたのです。皆が助けあわないと生きていかれないことを、人々は永年の知恵として身につけ、次の世代へと継承されてきました。
 農繁期には、子供たちも田畑の手伝いが普通であり、農家でない子供でも、手伝いに行くということが当然なしきたりであったのです。このようなことで、働くことの意味や友達関係など大切なことが言葉ではなく、実践を通して理解を深めていけたことは、ある意味では幸せな時代であったわけです。
 現在のようにおカネやモノの豊富な時代ではなかったが、大人も子供も生活への充実感があったと思います。子供たちも小学校を出れば、一部のものを除いて殆どが働きに出ていったが、男子の場合の大方は山仕事につき、貰った賞金も家計の助けにするということが普通であったようです。自分よりも家族のために働くといった思いが強かったので、このような思想や考え方が、伝統文化を大切に守り、地域社会を大切にしていくということにつながったわけです。

3.大塔山国有林で
 彼は旧制中学較を卒業した後、1946年4月から1949年9月までの3年6ケ月間、和歌山県新宮営林署管内の国有林で働いたが、当時はまだまだ、人と自然との関わりや、森林の文化が豊かに残されていたようです。
 樹木の伐採も択伐方式であるから森林は丸裸になることはなく、成長過程の樹木は残されておりました。伐採された樹木はトロッコで搬送するわけですが、往復32キロの道のりを仲間とともにこの仕事に従事した人達は、全てにおいて助けあい協力しあい、例えば賃金なども分配しあうといったことが普通であったという。
 当時の森林の仕事は危険な上に重労働であるため、協力の精神や仲間意識がつよく、それに、山や木に対する感謝や畏敬の念もことのほか深かったようです。

4.森林文化の崩壊
 何百年にもわたり継承されてきた森林の文化も、日本の経済成長とともに、経済的な価値観でしかみられない時代を迎えました。里山まで、スギ・ヒノキを主体にした人工林にとってかわり、明るかった村や里の様相も大きく変化してしまった。
 それとともに都市化現象は、山村の過疎化や国民の価値意識の変化などにより様相が一変した。つまりこのことは森林や森林文化の崩壊をも意味したのです。
 山村文化の中心的存往であった小中学校も、統廃合されて山村から消えてなくなったのです。学校を卒業するとすぐに森林の仕事につくといったことも殆どがなくなった。教育の世界でも、助けあい協力しあうといった意識や考え方が希薄となり、本来純真であるべき子供の心のなかにも大きな変化が生じてきたのです。  

5.森林文化の復活へ情熱を
 森林文化とは、人々が人間として豊かに幸福に暮していくことのできる基本的な知恵であり、その根底には人々が互いに助けあい協力しあっていくという思想があります。
 現在起きている様々な社会問題の根源には、何百年にもわたり継承されてきた森林文化が希薄になってきたことによることも大きいという。
 1984年4月、新宮市立高田中学校長に配属された彼は、公有中学としては全国で初めての、都会からの中学生を受け入れる留学制度の導入に踏み切ったのです。
 3年間の在任中、多くの都会からの子供たちを受け入れたが、子供たちの学校生活は伸び伸びとしたもので、当初心配されていたことは全く杞憂に過ぎなかった。
 学校の基本計画のなかに、自然体験学習を多く取り入れていたことにより、子供たちの心や意識の中に、自然の不思議さや未知なるものへの関心など、五感を通しての感動を持たせるのに役立ったようです。
 都会の子供も山村の子供も健全な生活をおくり、心身ともに豊かな人間に成長してもらおうとの思いで、本格的に、森林文化の復活から推進していこうと、1987年、熊野森林文化交流会の設立に向けて準備をすすめたのでした。
 丁度この頃、社団法人アジア協会アジア友の会主催の「土と水と緑の学校」を開催していた村上公彦事務局長に出会い、「アジアの国々に日本の森林の技術を伝えることができないだろうか」との話を受け、会員との話し合いの結果、これからは森林文化を国際的に活かしていくことも重要であるとの、共通理解を深めていったのです。
 1989年4月29日「熊野森林文化国際交流会」(社団法人アジア協会アジア友の会新宮地方部会)を結成したのでした。
 第一回は、1989年8月から9月までの40日間開催されたが、この40日間にわたるアジアの人々との触れ合いのなかでの最大の収穫は、現在の日本人には希薄になっていた、人間としての優しさや思い遣りが、研修生たちは豊かに持っていたことと、我々日本人が失ってしまったものが余りにも多くあることを、気付かせてくれたのでした。
 この活動の理念は『生命を生み出す水資源』と『心豊かな青少年の育成』になりますが、そのためには、具体的な実践を通しての活動が主体になります。現在行なっている主たる活動として、自然歩道整備や山小屋建
設、KANTAの「よみがえれ森」づくり、森林環境保全などがあり、また、教育関係機関との連係を深めて、子供たちとの植林活動、自然観察、交流活動にも積極的に参加しておら
れる。特に女性の活動として、アジアの人々との交流、地球環境教室、コンサートなど様々な活動を通して、教育や環境、国際協力に対する認識と理解の向上につとめているという。

6.まとめ
 歴史や文化、環境、生命、水の毎である森の保全と再生は、今に生きる私たち人類の責任と義務であると思います。何百年にもわたり継承されてきた森林の文化を、これからの世界の森林保全や再生に生かせれば、世界の人々から信頼されるのではないかという思いを強くして、坂本宅を後にしました。(竹、有)

                  「トラスト関西・1998.6」より転載