〜自然に甘えてきた日本人〜
 私たちが住む日本は比較的水の豊かな島国で、温和な気候に支えられて、豊かな森林に囲まれながら、季節折々の農耕をしていれば、安心して暮らせる。自然 に恵まれすぎて、その恵みをタイミング良く受けていればよかったので、自然に対する私たちの目も受動的であることに気づく。だから日本の風景を論ずると き、機能的な見方ができにくく、どうしても審美的・芸術的な感性の対象として見てしまう。私自身、趣味で絵や俳句をやるが、美の対象として自然を讃美する 題材が多いことに気づく。今、日本の風景らしい自然を次の世代に残そうと呼びかけるときに、自然の人間に及ぼす働きを論理的に、機能的に説明する必要がで てきた。そんな目的でこのコラムを設定したが、説明するには権威が必要である。担当の私は権威を求めて情報を探した。そして新潟大学教授の樋口忠彦氏の 「日本の景観」と出会った。建設学科の教授にふさわしく、自然を構造的・審美的の両面から捉えているところに共鳴してしまったのである。以下理論展開をするに当たり、この本を柱に進めていきたいと思う。

「風景には二種鞍ある」
 一つは自分の故郷のように、心に懐かしく抱いている心の中の風景。もう一つは眼の前にある現実の風景である。人間は心の中の風景を本当の風景として美化 し、現実の風景の変化を認めたくないという保守性を持っているようである。心の中の風景にも二つある。子供の頃に体験した快い故郷風景が一つ。感受性の強い子供時代にインプットされたものは生涯の風景となるのである。もう一つの心の風景は人間の一生を超越して、人間の生活環境として最も心地よい風景とし て、誰れしもが認められる歴史的名残りの風景がある。こんな心の中の風景と現実の風景が大きくずれると、人間は昔懐かしい代償風景を生みだす。自然から離れた都市生活者は、自然を模した庭園を発展させ、日本人は更に床の間まで自然を持ち込んで了った。これを芸術にまで高めた日本文化を、ある外国の評論家は 縮みの文化、手のひら文化と評するのであった。一方西欧でもエデンの園、古代ギリシャのアルカデイアの風景、中国の桃源郷、蓬莱郷、浄上などのイメージが フィクションされていた。これらの代償風景化は現在でも健在で、都会のオアシスとして、川のせせらぎや、並木道を作るのも、この現象としてみてよいだろ う。こう考えると風景の保全も、現在する心の中の風景の保全と、都会で作られた代償風景の保全とを手掛ける方が、現実的かもしれない。これから発展する都 会生活を思うと、この代償風景をいかにデザインし、いかにとり入れるかが、保全運動と合わせて今後の課題になるような気がする。

「自然に愛されてきた日本人」
 自然の恵みにどっぷり漬かり、母なる自然に抱かれて、揺り籠の赤ちゃんのように、甘えてきたといえよう。ある先生は、甘えの感受性を日本人の特色とし、 本居宣長の「もののあはれ」という言葉が、単的に表していると指摘している。この甘えの構造は『株式会社日本』の社員に企業文化として浸透し、不況という 言葉が死語になるほど長引いても、まだ慈雨を待っている状態である。今更ながら、自然の人間に与える影響の大きさに感心するばかりである。自然と戦い、自 然を愛してきた欧米人とは大きな差があることを思うと、日本人も自然とのつき合い方を、ポジティヴに変えていかなければならない。

「甘えが公害を速めた」
 自然の流れに従って、自然に依存してきた生き方は、文学的には自然への甘えであり、科学的にいえば、自然の再生能力に依存し切っていたといえよう。その 結果、文明の進化と共に激増するゴミ、廃液、汚物が、乱開発で自然の再生能力が低下し、その回復力を上回って了ったのが、公害(自然破壊)という形であ る。存命中には分らない母の慈愛に似て、自然の再生能力が、危機に瀕しているのに、それにピンと来なければ、自然との調和や平衡状態を保てるような風景に ポジティヴに持っていかなければならない。都会の代償風景づくりもしかりである。
 そのためには風景の構造を明確に意識していく必要があると思う。次号より私たちの風景を構造的に追ってみようと思う。

                 〜日本の景観を分類〜

 日本の景観の物理的な特徴を上げると、次のようになろう。

(1)まず、日本は四面、海に囲まれていること。
(2)海岸線が世界有数の長さを持ち、変化に富んでいること。
(3)川上に山脈、川下に小さな盆地や平野を持つ山国であること。
(4)その植生は森林を主体にしており、北は亜寒帯針葉樹林から南は亜熱帯林まで豊富であること。
(5)四季の変化がはっきりしており、雨が多いこと。

などが挙げられる。
 このような日本列島の中で、日本人はどんなところに、住みついたのか考えてみると、川の下流域に点在する平地に住みついていることに気づく。その居住の環境を見渡すと、
「盆地」「谷」「平野」に分けられる。そこで新潟大学教授の樋口忠彦氏は、更に細分化している。即ち山の崖の「山の辺」、河川、海、湖沼の附近の「水の 辺」、丘陵地を含む「平地」の三つに分類している。これらの組み合わせで、日本人の居住の景観を図のように9つに分類している。

盆地…山の辺
   …山の辺+水の辺
   …平地+水の辺
   …平地
谷 ……山の辺+水の辺
平野…山の辺
   …山の辺+水の辺
   …平地+水の辺
   …平地

 これらの分類は、水系によって分類されていることに、まず注目したい。日本の景観が構造的にだいぶ明らかになったところで、各論で更に特徴を掘り下げてみよう。

「盆地の特徴」
 盆地は周囲を山に囲まれ、一つの完結した世界を醸し出し、住む人に休息感を与えるムードをもっている。閉鎖的で完結しているのが、特徴といえよう。更に 意外性という面もある。「雪国」のように、トンネルを越すと、パッと銀世界という別の世界に飛び込む、意外性のある景観がある。この意外性が独自の盆地文 化を育むのかもしれない。最も古い盆地は大和盆地である。それは神武天皇が東征の果てに、たどり着いた葛城山麓の丘陵地である。(日本書記)
 ここでちょっと余分なことかもしれないが、「やまと」という言葉の語源を探ってみよう。いっそう意味がはっきりしてくる。諸先生がたのこれまでの研究で は「山門」「山間処」の説がある。いずれも周囲を山に閉ざされた盆地そのものを表わしているようだ。一方蝦夷(えみし)征伐を終えて、伊勢・能煩野(のぼ の)にたどりつき、大和盆地を思いながら「山隠(やまごも)れる、倭(やまと)こうるわし」と叫びながら死んでいった倭建命(やまとたけるのみこと)の歌 からは、安住の地、休息の地、臨終の地という捉え方もされていたようだ。母性的空間として機能していたのであろう。やまとを大和と当て字するのも理解でき る。このような母性空間は、宮殿や都を生み、日本独自の文化を育んできた。奈良盆地と京都盆地がその代表である。渡来した文化もここで熟成し、全国への発 信基地の役割を果したのである。日本文化は、この盆地の機能を抜きにしては語られないように思う。

「盆地の典型的景観」
 日本人が愛着を覚え、渡来文化を熟成し、独自の仏教の発信基地となった、仏教的空間として、高野山があげられる。入定した空海は、真理の探求に、修禅に 最適の地として、高台にある平地の高野山を選んだ。これを取り巻く峰が、あたかも八業の蓮華のようであるところから、空海は全山を八業九尊の曼茶羅とみ たてた。樋口教授は「八業蓮華型」景観として、典型的な盆地の一つに選んでいる。教授は更に「小野」「隠れ里」と呼ばれる小盆地を上げている。宮殿・都・ 寺院群などのない、庶民の生活空間である。鉄道や車で川上に沿って遡り、峠を越えると、ほっと一息つく小さな平地、小さな部落が目に入ることがある。地名 に何々の里、小野○○村とある。時には立ち止まって村の人に聞くと、この奥は昔、平家の落人の隠れ里だったと聞いたこともある。このような閉鎖的な盆地に 住む人たちは、孤立経済を営みながら、心の支えとして山を神とし、桃源郷のイメージをダブらせるのである。教授はこの小盆地を「小やまと型」景観と呼び、 中央や地方文化を包み、育んできているので、民俗学の宝経と指摘している。

「和ませる火口湖」
 盆地の景観機能に、休息感をあげたが、この盆地に、川ならぬ火口湖があったら、言いしれぬ平和、安堵感を覚えるだろう。水は人々に色々なイメ←ジを想起 させるが、その底辺には海があろう。海は生物の、人間のルーツであり、母である。平穏な休息感をもつのは自然かもしれない。日本庭園に海を模した池が大き なスペースを占めているのも当然である。池に割くほどの面積がない禅宗寺院などは、白砂の石庭という代償風景を作っている。火口湖の景観の中で印象に残る のは、晩秋の十和田湖であろう。底知れぬ深さをもつ水面をじっとみていると、吸い込まれそうな恐さから、穏やかな感情に変っていくから不思議である。海に おとらず湖も、人に平和な穏やかさを与え、母に抱かれる母性的揺りかごの誘惑にかられるのである。


                 〜谷の景観を分類〜

 日本人が住みついてきた居住環境を分類すると、大きくは「盆地」「谷」「平野」に分けられ、それぞれは山の崖の「山の辺」、河川、湖沼、海付近の「水の 辺」、丘陵地を含む「平地」の組み合わせで9つに分類されると前号で説明。そのうち盆地については、前号で述べてきたので、今回は「谷」について説明しよう。

(谷の特長)
 日本の地形を上空からみると、流域に沿って平地のある盆地や平野が点在し、谷川がこれらをつないで海に達していることに気づく。また谷川のふもとに立つ と、上流と下流がはっきりとした方向をもち、両側は山に挟まれ、視界が限定された奥行のある通路状の景観であることにも気づく。そして上流へ上流へ遡りた くなり、遡れば行き止まりの奥山が聳えている。そして仰ぐ人を脆かせる神のイメージを抱かせる。それは絶えることのない水の流れが人の生命をつなぎ、農耕 を可能にして、人に安住の小空間を与えてくれるからであろう。 さて谷の景観の典型的な風景は、新潟大学教授の樋口忠彦氏によれば四つの型に分袈される。 「水分神社」型、「隠密」型、「小やまと」型、「谷地」型である。それぞれの特長を次に説明しよう。

(水分神社型景観)
 日本人ははじめ海の辺に住みつき、農耕文化を営みはじめた弥生時代から、谷川の水の利用を通して、絶えぬ水の流れ出る谷を、流水の流通分配を掌る水分神 (みくまりのかみ)として祭った。谷神というイメージである。中国の老子は神秘な牝(いん)、女性の象徴とみているほどある。どんなところに水分神社を 祭ったかというと、奥山から水が流れ出る水口のある、谷の奥の緩傾斜の山の辺の地にである。周囲を山に囲まれた安住の地である。この水口から出た水はケガ レのない水として一層崇拝されていた。山麓の中腹まで住宅開発されている今日、こんな水を探すのは大変なことである。具体例として大和・宇太水分神社がある。近鉄線榛原駅を降ると芳野川と宇陀川の合流地点に低湿地帯「落合」という地名がある。この周辺に集落があり、突き出た丘陵地に下井足の宇太水分神社が ある。ここから芳野川に沿って遡っていくと中流に位置する古市場に宇太水分神社があり、最奥部の上流に芳野水分神社がある。それぞれの水分神社を中心にした集落がみられる。この地に木津川の支流・布目川の上流部にある都祁水分神社、その奥にある小山戸の山口神社がある。これらの社頭か
らみる田園風景、今やなつかしい風景になろうとしている。

(隠国型景観)
 山沿いの集落をいくつか抜けて、そこを流れる川の上流を遡ったところに、小闇く、静かな谷の奥の山宮、これを囲む人の集落がある。仰ぎ見ると霞のかかった奥山が神の住む霊山としてみえる。流れる早瀬の河原は壊れた岩がゴロゴロしている。ここが柩の送られる「賽河原」であり、ここから霊は山に昇天されていくと信じられていた。

(小やまと型景観)
 谷奥に隠れてあるような集落、小野とか隠れ里といわれる空間である。徳島県の祖谷山、飛騨白川郷、近江・小椋谷六ケ畑などがその例である。これらは険しい谷間の集落で、焼畑農耕か林業でくらしている。

(谷地型景観)
 特に東日本に谷地(やち)とか谷(やつ)といわれる地形である。盆地や平野の山の辺にある丘陵と丘陵の間に位置する小さな谷である。大々にして低湿地で ある。このような地は農耕に適し、この低湿地に棲む蛇を神として祀った夜刀神社があり、一つの生産単位を形成していた。鎌倉の山の辺には、六十六谷といわれるほど谷地形が発達している。この地形を生かして鎌倉の禅宗寺院が営まれている。建長寺や円覚寺の伽藍配置はこの地形に適合させて、タテ型である。一つ の谷を占有することで宗教的、霊的景観を生み出している。又この空間は水に恵まれ、奥の山頂からは眺望をほしいままにできるメリットもある。禅宗寺院の人 たちの知恵といえよう。一方両方の丘陵に抱かれた空間は母性的でもあり、人々にやすらぎを与える空間にもなっている。(以上)

※賽は「さえ」からきた言葉で、「さえぎる」即ち外敵の侵入を阻止する境界を意味する。ここから先は山の奥で霊の世界、ここから下は里につながる俗界ということである。
                                
※この谷奥の空間を隠処の意味の隠国型景観と樋口教授は呼称している。具体例としては奈良盆地から奥に入る初瀬川の谷の最も奥まったところにある泊瀬山 と、山麓にある長谷寺のある終瀬(はつせ)である。この他に那智湾に注ぎ込む那智川の谷を遡れば、那智滝の傍にある青岸渡寺、那智大社がある。その上流は 円錐型の妙法山が聳えている。(熱)
   
               (トラスト関西・1995.9.&1997.3.&1998.6.より転載)




日 本 の 風 景
「自然」に甘えてきた日本人
〜日本の景観を分類

〜谷の景観を分類〜