この数年、新聞、テレビのニュースや論説に、必ずといっていいほど、環境問題が取り上げられている。そしてこの問題を解決する方法の一つとして、まちづ くりの市民運動がとり上げられている。これは環境問題に取り組む理念−think globally act locally−が除々に浸透してきた証であろう。意訳をすれば、環境は地球規模で考え、解決のための行動は地域単位または足元から開始しようということ である。しかし実際の活動を散見すると、目標が不明確だったり、遠廻りしたりして、結果は尻切れとんぼになっている場合がある。環境問題にまちの人々と一 緒にやること自体にステイタスを感じ、ファッション化している現象と私は見ている。その原因はリーダーが不在か不勉強によるものと堆察している。ここで申 し上げたいことは環境問題を地球規模に加えて、長期的視野に立って四つに組んで欲しいことである。何故なら環境はやり直しがむずかしいからである。環境に 配慮したまちづくりが好ましい方向に、効率よく展開されることを願って私のまちづくり論の一端を申し上げたい。稿を起すに当っては、まちづくりに当って直接ご指導を受けている関西学院大学のK先生、諌早湾干潟緊急救済本部の代表でエコロジカルプラ ンニング研究所の所長であるY先生、歴史学者で流通科学大学のN先生などのお考えや情報を参考にさせていただいた。まちづくりにご関心のある方のご参考に なればと思い、以下綴って参りたいと思う。

●「まち」のイメージ

 私は千葉県・岬町の生まれである。太平洋沿岸の農・漁村で、沿岸部はリアス式海岸の岬をもつ国定公園と漁港、陸部は温暖な気候で育まれた、真っ黒な肥沃 な土の農耕地帯である。戦争中は国民学校の低学年だった私は、今思うと非常に好奇心が旺盛で、人の集まるところに行くのが好きだった。当時ムラだった町の 商店街の空地に七のつく日に立つ市(いち)には、必ず祖母か母と一緒に買い物に付いていっていた。私がお八つにおいしいものを物色している最中に、祖母や 母は久しぶりに逢う主婦たちと楽しそうにダベリングしている。夏休みになるとこの空地に芝居小屋や映画小屋が立つ。少年の私にとっては手身近な文化吸収 のメディアであった。これに飽き定らないときは、三時間汽車に乗って東京へ、二時間余りで千葉へ、三十分で茂原へと町の文化を吸収するために出かけた。苦 から市はまちを成立させるための大きな要素であった。市は多くの異なる人々や物、情報が集まって成り立つ。従って市の機能を常備しているのがまちであり、 まちはそのため
に異質な考えや生活様式をもつ人々を一緒に住まわせる場となるのである。まちの機能を盛り上げるのは、昔は市であり祭りであった。今はこれに加えて、様々 なイベントがあるが、本質は市を中心とした魅力づくりであろう。魅力のある市を作りまちを作ることは当たり前のようだが、三十年前の経済高度成長期には 「そんなことは必要ない」とお叱りを受けたと諸先生がたは述懐する。しかし今は違う。まちづくりが慣用語になりつつある。当初は自治体の都市計画や都市開 発を市民にとって身近にしようとして、官庁や自治体が使い出したが、今は市民側からもまちづくり参加の必要性が叫ばれ、官民一体のまちづくりが市民権を 待つつある。

●まちづくりの方向


 まちの原点は市だと申し上げたが、その前提は住み心地の良いまちづくりであることだ。少年時代を顧みると、インフラの不便さはあったが、住み心地はよ かった。しかし経済成長の名のもとに、インフラは整備されても、排ガスの多い道路、ゴミが浮いている濁った川などで住み心地は犠牲にしてしまった。葵市の 機能を発展させる前に、まずは住環境の回復が先決問題であろう。次が本来の市の機能の質的な発展ではなかろうか。また目に見えるインフラも大切であるが、QOL(生活の質)を重視した目に見えないまちづくりが今後進めていく方向ではないかと思う。そしてまちづくりの主体は市民で、自治体は黒子に徹して市民をバックアップするのが官民一体の理想と思っている。それには市民の自覚と責任が求められる。次にまちづくりの心得をいくつか挙げてみよう。

1 まちづくりソフトの充実
 ややもすると設備や工事などの建設でまちができるような錯覚になるが、まちづくりが人を集める装置づくりとするならば、主役である市民がどう動いて時を楽しんで貰うかの人の流れと楽しみ方を、一つのシステムとして設備などのハードとセットで考えなければならない。

2 個性的なまちを
 地域性を生かすことである。地域のもつ歴史的な遺産や伝統文化、個性のある風土などを大切にするまちをつくることが大切である。このためには自治体のタテ割り行政に主導権を渡さないことである。まちの人々は、タテ割りでは生活できないからである。

3 住むに値するまちを
 まちは生きた人間が住むためにある。そのために、美しさ、品格、安らぎ、潤いを与える澄んだ川や緑が要る。その川や緑で市民が快適な生き生きライフをど う演じてもらうか、そのインターフェイスづくりに知恵を出し合わなければならない。インターフェイスは人々を交流させるコミュニティかもしれない。

4 まちづくりの人づくり
 まちづくりの成功例やユニークな個性的なまちには、必ずしっかりしたキーとなるリーダーがいる。 このり一ダーを育てるのもまちづくりの大きな仕事である。また市民全員が自覚と責任をもって協力し合えるよう意識を高める機会づくりも併せて大切である。

5 まちづくりとは実践を伴うもの
 理屈や理念に止まらず、実践に移すところに意味がある。足元のゴミを拾うことから、隣の農村や近隣の人々とネットワークを組んで、リサイクルの流れを作るなど、実践の範囲を広げたいものである。

●まちづくりの仕事


 「住んでいてよかった」「住む町として推薦したい」などの積極的に評価できるまちにするには、その実現のための仕事はたくさんあるが、重要と思われるものを順序不同で挙げてみる。
  1 川と緑と花で生活に潤いを与える
  2 公害や環境汚染をなくす
  3 町並みに一貫した雰囲気を作る
  4 長期的視野で土地利用の計画
  5 地域内で働く場と収入の確保
  6 中心街に賑わいや交流の場を作る
  7 歴史的、伝統的な文化の保全と活用
  8 生涯学習、市民大学の機会を作る
  9 自由に想える歩行者天国の空間確保
 10 地域内交通に自家用車の自粛
 11 子どもの生き生きライフを支緩する
 12 ハンディのある市民も明るく平等に参カ
 13 イベント、繁りが盛んなコト興し
 14 姉妹都市で国際交流
 15 開かれた自治体、横断的な行政
 16 夜でも安心して歩ける町
 17 道案内をする駅前ボランティアのある町
 18 レスキユー隊が派遣できる町
 19 鳥のくる森づくりと森林体験
 20 人権尊重を宣言できるまち
 21 市民リーダー・の豊童なまち
 22 自転車で一周できる専用道のあるまち
 23 自治会とは違う地域コミュニティの育成
 24 地域発展のある町
 25 道標やマッフが完備しているまち
 以上思いつくままに上げても限りなく出てくる。これらを個々に説明する余裕がないので、必要に応じて専門の書籍やインターネットをサーチするのが手取り 早い。これまで自治体主導でタテ割的に堆進されているが、上から見た視点が大々にして多い。市民と地域の目で統合的に、長期的に据え直すことが重要であ る。ここに市民参加、市民自治の意味がある。更に実践に移すに当っては、理想と現実との乖離に遭遇するが、これまで述べてきた理念、理想に現実を近づけよ うとするのが実成であるといえよう。

●事例「平野郷」の町並みづくり

1 社寺遺構の町
 大阪市の東南部・平野区に属し、元禄十五年以来平野郷町と称されている約−キロ平方の地域である。地名は当地の低地開発をして、当地を治めた坂上田村麿 の子、広野麿の名に由来しているようである。私が「平野郷」と出逢ったのは、十年ほど前に一覧した日本ナショナルトラスト報告書「平野の町並み−平野の歴 史を生かす町つくり(一九八六年発行)である。数年前、当協会設立に当ってのご縁から、いろ色薫陶を受けている歴史学者、N先生より、平野郷についてお話 や資料の提供をいただいているうちに、私なりのまちづくり論ができ上がってきたように思う。この項ではその「平野郷」を事例にして、これまで述べてきたま ちづくりのあり方を再確認したいと思う。本論に入る前に平野郷の歴史の概略をまず紹介する。現存する社寺の創建年代は平安時代に遡り、主なものに次のよう なものがある。まずは杭全神社。坂上家の氏神で、熊野三所権現を祭っている。毎年七月十一日から十三日の深夜にかけてはげしいだんじりの曳行が行われ別名 「けんか祭」とい
われている。境内には三棟の本殿があり、室町と江戸時代の遺構として重要文化財の指定を受けている。また全国でも珍しい連歌所の建物があり、再建された江 戸時代以降の連歌資料が残っている。正に文化発信基地である。次が長喜寺。田村麿の娘で桓武天皇の春子妃が開いた寺で、大阪夏の陣後再建され、真言宗に属 し本堂は伝統的な密教本堂の形をよく伝えている。同じく平安に遡る寺院に、薬師堂ともいわれる真言宗の全輿寺と浄土教の大念仏寺がある。当寺がこの地で融 通念仏宗の本山として機能しはじめてから寺院が増え、浄土真宗の寺院が十一ケ寺も存在しているほどである。

2 環境都市「平野」
 坂上氏によって開発された自墾地は十一世紀に、藤原氏の大規模な荘園経営に組み込まれた。南北朝から戦国時代に、この集落地域の周囲に堀をめぐらし環濠 集落として出現した。掘の目的は防御が目的であるが、悪水処理や農業用水にも役立てたと思われる。この環濠が共同体組織の町衆「おとな」を育み、自治の意 識を高めて今日に受け継がれている。夏の陣後、焼失の平野郷の復興がはじまり、基盤目状の現存の町割が完成。坂上家につながる七為家の総年寄が総会所を運 営し、七町にそれぞれ町年寄を置いて会所運営の町政が確立したのが元禄十五年(1702年)。町政のすべて終始町衆が仕切り、明治以降も自治の空気は生き ている。ここに商人を中心とした自治都市が誕生したのである。

3 歴史的町並み
 平野郷に残る歴史的な町家は少なくない。町家は中二階を物置代わりにした二階前面ツシ式のものが主である。現存する町家の伝統的な建造物を保存する目的 で、1970年代に大阪市が町並み調査をした。結果は保存対象外となった1985年、「平野の町づくりを考える会」が中心となって、日本ナショナルトラス トの援助を得て町家実態調査が行われた。結論は次の通りとなった。(イ)環漆の埋め立てを除けば町割りの基本的構成は元禄まで遡れる。(ロ)現存する住宅 は十八世紀から昭和戦前期までの多様な住宅形式がみられる。(ハ)現存の住宅遺構は「住宅の博物舘」といえるほど、住宅の歴史的変遷を為るのに貴重なもの である。ここに町並み保存のキーコンセプトができた。平野の町づくりを考える会はこれまでにいくつかの運動を重ねていた。1980年、南海平野線の廃止に 伴う平野駅の八角堂駅舎の保存署名運動。1983年6階建マンション建設に伴う景観協約運動。1985年江戸時代の民間塾「含翠堂」に因んだ町人文化講座 開設。1986年、町並み調査。1989年「平野昔話」刊行。1992年、杭全神社の御田植え神事の保存会結成、秀吉の花見酒となった「平野酒」復元。一 九九三年町家単位に映像、自転車、幽霊、新聞屋、くらし、鎮守の森、駄菓子屋の館が博物館としてオープン。主人の仕事や道楽から始まったコレクションであ る。運営は自分流で、無料であることが共通している。1999年中に100館を目指しているという。1996年、「モダンd e平野」の芸術イベントも開催し、町民の作品参加も活発。特に
 博物館運動についてN先生はこう指摘されている。平野は際立った文化財が多く存在しているわけではないが、様々な文化遺産が濃密に混在している。そして、今も平野の人々に根付いている。生活する人々は自治の気風を受け継ぎ、誇りとしている。文化財保護法による個別指定でなく、生活する人々を含めた歴史的文化的価値を評価したいという。平野の町づくりを考える会の全輿寺住職K氏は、運動精神を三つのキーワードで要約してくれた。「おもしろい」と思ったこと に、アメーバーのように町を動き廻わり、行政と「いい加減」な距離を保ちながら、価値観を共にできる「人のフンドシ」を借りてネットワーク
を組み、まちの形を整えていくという。私も学んだ。それは、生活シーン・佇まいが博物舘であること、自治体抜きの市民主体が町づくりの成功のカギ、町の活況づくりは祭・イベントであることの三点である。(熱)
                     「トラスト関西 1999.12」より転載




「まち」をつくる